エチオピアの歴史

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目次

・エチオピア年表(高橋)
・人類発祥?の地エチオピア(ワイエブ)
・アクスム王国とプレスター・ジョン伝説まで(岡本)
・アドワの戦い(山之井)
・エチオピア戦争について(丸山)
・諸公候時代とメネリク2世(栃元)
・アフリカの年(宮原)
・帝政崩壊から現代にかけて(山崎)

エチオピア年表

報告者:高橋雪子

先史時代・・ネグロイドが定住

BC3000頃・・ハム系クシ族の定住

BC1000頃・・南アラブよりセム族侵入/シバ女王とソロモン王の伝説

BC100頃・・北部にアクスム帝国成立/エジプト、インド、イタリアなどと交易

AD300頃・・アクスム帝国最盛期/エザナ王が近隣諸国を征服

330・・キリスト教が国教に

500頃・・カレブ王が帝国を復興

523・・第一回アラビア攻撃(以後3回にわたる)→アクスム軍がペルシア人に より全滅→回教徒勢力に紅海の主導権を奪われる→遊牧民ペルシア族、エジプトとの交易を断つ→ペルシア族の侵入、アクスム人南下

900末頃・・ハム系アガウ族との衝突でアクスム人滅亡→アガウ族がザウゲ王朝成立

1270頃・・ソロモンの血統であるアムラクによってザウゲ王朝滅びる→ソロモン王朝復活→イスラム武力侵略

1434・・ザラヤゴブ帝が西方世界との外交を確立

1543・・ソロモン王朝はポルトガルと連合し、イスラム勢力を破る。ハム系遊牧民ガラ族により、ソロモン王朝は北方へ追い込まれる

1621・・ソロモン王朝がローマ協会帰属

1636・・ゴンダールに首都が固定され、地方勢力が強くなる

1855・・テオドロス2世がエチオピアを統一

1868・・通商条約を巡る紛争でイギリスと争う→エチオピアは敗戦し、イギリスは引き上げる。

1871・・ヨハネス5世が帝位につく→エジプト、スーダン侵略の撃退

1887・・ヨハネス5世がイタリア軍の侵攻を阻止/首都がアジスアベバに決定

メネリック2世が帝位に/イタリアとウッチャリ条約を結ぶ(マレブ川北部はイタリアの支配へ)

1890・・イタリアが北エチオピアをエリトリアと命名

1896・・現在の国境確定

1923・・国連加盟

1930・・ハイレ・セラシエ1世即位/日エ修交通商条約締結

1931・・帝国憲法の制定/奴隷制度の廃止/友好使節団訪日

1935・・イタリア軍侵入

1936・・イタリア軍に併合され、皇帝はイギリスに亡命

1941・・イギリス軍の応援によりイタリア軍を破り、アジスアベバに帰還

1952・・エリトリアと連邦を結成

1962・・エリトリアを併合/エリトリア解放戦線(ELF)発足

1963・・アフリカ統一機構(OAU)の本部をアジスアベバに設置

1974・・革命が起き、軍事社会主義政権へ

1987・・エチオピア人民民主共和国成立。メンギスツ・ハイレ・マリアムが初代大統領に

1991・・社会主義政権の崩壊。メレス・ゼナウィが大統領に

1933・・エリトリア独立に対する住民投票→エリトリア独立

1995・・エチオピア連邦民主共和国に。メレスは首相になり、ネガソ・ギダダが大統領に

1998・・エリトリアと国境を巡り武力衝突

2000・・対エリトリア戦争の終結

2001・・グルマ・ウォルドギョルギス大統領就任



人類発祥?の地エチオピア   報告者:ワイエブ

約700万年前

現存する最古の猿人の人骨。⇒トゥーマイ(チャド)猿人

約440万年前

エチオピア、ハダルにて猿人の生息跡。二足歩行しチンパンジーと別れる⇒ラミダス猿人

約420年前

アフリカ東部にて猿人の生息跡。スネの発達、二足歩行は確実⇒アナメンシス猿人

320~370万年前

エチオピアで体全体の4分の1の骨が残る猿人の発見。⇒アファル猿人。通称「ルーシー」

330万年前とされるアファル猿人の赤ちゃんも発見されている。通称「ルーシーの赤ちゃん」

ルーシー

骨格から、はっきりと二足歩行をしていたことが分かる。

昨年7月末よりその化石は、アメリカ展示のために6年間離れることに。

米国アラン・ウィルソン

ミトコンドレア・イヴ説・・・正しければエチオピア周辺がその地

女王伝説

紀元前1000年 イエメンのシバ女王によるエチオピア統治

「知恵の人」であったエルサレムのソロモン王と接見

⇒初代エチオピア皇帝となるメネリクを出産。エチオピア改定憲法では、このメネリクの誕生年(BC982頃)をエチオピア起源に定める。

⇒シバはユダヤ教に改宗。同国ユダヤ教信仰の礎に。

女王はエルサレムの富を、ソロモン王は商業の拡張にそれぞれ関心が高く、この利害関係が二人の、二国間の関係を生む。

BC600年頃、モーセの十戒で知られる石版を納めた聖櫃がエルサレムからエチオピアへ渡ったとする伝承もある。場所は同国最古の都アクスム。以降も近年に至るまでエチオピア内には多くのユダヤ教徒が職人として暮らし、北部のゴンダールには今でも彼らの面影が残る。が、現在では、イスラエル建国後の20C半ば以降にそのほとんどが同国に移住。

エチオピアユダヤ人(ファラシャ)の縁の地⇒アクスム、ゴンダ―ル



アクスム王国とプレスター・ジョン伝説まで。

                        06ks1068岡本尚子

アクスム王国

 ・王国の開始時期は紀元100~300年頃。クシュ王国の流れを汲むメロエ王国を滅ぼして建国か。(紀元前1世紀が有力視されている。→『エリュトゥラー海案内記』1現存するオベリスク群から類推。)

・王はソロモン王シバの女王の子、メネリクを祖とする皇統性を主張。

・交易によって栄えた。

  ・主な交易国→エジプト・ギリシャ・アラブ地域・エリトリア

  ・輸出品→象牙 輸入品→銅・鉄・銀細工・ガラス製品

『エリュトゥラー海案内記』より。  

 ・エザナ王(在位303年~356年)→キリスト教を取り入れた。以前は多神教。

  ・経緯→エザナ王に寵愛された、フェニキア人、フルメンティウスの存在。エチオ

ピア初のキリスト教会の建設者。アタナシウスにより司教になった。

 ・アフリカで初めて硬貨を鋳造した。(3世紀後半、エンドゥビス王時代)

  →この流通が王国の富の蓄積につながる。=勢力の拡張。

 ・517年イエメンに兵力派遣。(イエメンのユダヤ教勢力が蘇ったため。交易に摩擦が生じた。)→現勢の維持に成功。

 ・6世紀後半→イエメンに勢力をのばしていたササン朝ペルシャのホスロー1世率いる遠征軍に壊滅させられる。→大きな痛手となる。その後退潮期に。

 ・1530~32年イスラーム軍による征服活動で王都も破壊される。ポルトガルが援護に来たが、イスラーム軍によって散々な目にあっている。

 

プレスター・ジョンの伝説

・プレスター・ジョン(英: Prester John)は、12世紀から17世紀にかけて流布された、伝説的な東方キリスト教国家の君主。プレスター・ジョンは、司祭ヨハネを意味する。キリストの誕生を伝えた東方の三博士の子孫とされ、当初はインド、後にモンゴルなどの中央アジアエチオピアジンバブエ等が「プレスター・ジョンの国」として推定された。この伝説の由来は、1165年にマニュエルという皇帝が、プレスター・ジョンという人物から手紙を受け取ったところからはじまった。エチオピアにいるのではないか、という推測が起こったのは、エチオピアが、熱心なキリスト教国家というのは知っているが、イスラム教国にはさまれてなかなか行けなかったため、そのような想像がうまれた。また、ポルトガルの使節がエチオピア皇帝に、皇帝という意味を込めてプレスター・ジョンと呼んだところ、自分はメネリクを祖とする正統な皇帝で、プレスター・ジョンなどではないと、否定している。

1姓名不詳のギリシャ人水夫が1世紀後半に書いたインド洋航海と交易の案内書。


『アドワの戦い』 

報告者:山之井脩

 :多くのエチオピア人は、植民地化を食い止めた独立戦争として認識

国際的意義

→イタリアが後退することで分割競走が激しくなった

→イギリスは仏・露に警戒心を抱く

→ファショダ事件を理解するには不可欠

cf.アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競い、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。

 

対比・併記

l         日露戦争と対比されるが、アドワの戦い>日露戦争

→1896年エリトリアから南下してきたイタリア侵略軍を破り、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割のピーク時に独立を保ったから

l         エチオピアとリベリアの併記……表面的

1.        リベリア

アメリカの解放奴隷を先祖の地であるとして入植させた

2.        エチオピア

内部での統一戦争や外部との折衝の結果、独立を守った

 

 

例外な国?

l         「アフリカ分割に時代に生き残った例外的な国」という表現は正しくない

→ヨーロッパ帝国主義の分割に加担して準帝国主義国であったからだ

→西ソマリアを支配に置いた上で、ヨーロッパによるエチオピア周辺の国境線引きを了承した。




<エチオピア戦争について>

報告者:丸山

1.第一次エチオピア戦争

1889年に皇帝となったエチオピア皇帝メネリクは国内の混乱を治め,イタリアとウッチャリ協定を結んだ。イタリア側はこの協定をエチオピアに対する保護権の獲得と理解したが,エチオピア側は自国の独立を保障するものと考え,この両者のくい違いが紛争へと発展した。1893年前半、皇帝メネリクはウッチャリ協定を破棄してイタリアの狙いをしりぞけた。1893年末にイタリアの首相に返り咲いたクリスピは強硬政策をとり、エリトリア植民地を拠点にエチオピア領への軍事侵入をはかった。

エチオピア侵略は、クリスピにとって強国としてのイタリアのイメージを内外に誇示する機会と考えられた。しかしこの侵略は、イタリア国民には不人気でブルジョア階層の同意を欠いていた。わずかにこの侵略を支持したのは、軍事需要や軍事輸送から生じる利益に期待をかけた鉄鋼・造船・海運業であった。イタリア軍は、1896年エチオピアの頑強な抵抗にあいアドワ近くのアッパ=ガリマで大敗を喫して侵略は、失敗に終わった。この敗北で辞職に追いこまれたクリスピ内閣の後を継いだデ=ルディニィは,1896年10月26日,アディス=アベバ和平条約を結んで,エチオピアの主権尊重に協力した。

2.第二次エチオピア戦争

1934年末に生じたエチオピアとイタリア領ソマリーランドのあいだの国境紛争において、イタリアはエチオピアに巨額の賠償金を要求した。エチオピアはこの賠償金を国際連盟に提訴し,その結果調停委員会が発足した。1935年調停委員会の両国はいずれも非難すべき点はないという結論を出し、イタリアはエチオピア侵略の準備を開始し,エチオピアと国境を接するエリトリアとソマリーランドに大量の軍隊を派遣した。

1935年10月3日、デ=ボーノを総司令官とするイタリア軍は、宣戦布告することなしに,エリトリアとソマリーランドの両国境を越えてエチオピアに侵入し,その後北部エチオピアのアドワとメケレを占領した。その後、デ=ボーノに代わってパドリオが総司今官となり,さらに進撃を続けた。軍事力で圧倒的優位に立つイタリア軍は、アディス=アベバを占領し,一方的に戦争終結を宣言した。

・エチオピア戦争

→http://www.tabiken.com/history/doc/C/C076R200.HTM


諸公候時代とメネリク2世

とちこ

①     諸公候時代(1679~1855年)

諸公侯時代とは、一般的にソロモン朝(13~16世紀)が衰えた後、17世紀に入って諸侯が抗争する群雄割拠の時代をさす。別称ゴンダール時代。

この時代を語るために、少し遡ってポルトガルとの関係から話をすすめていく。

航海時代。ポルトガルでは、エンリケ航海王子によるアフリカ沿岸航路開拓事業の結果、バスコ・ダ・ガマによりインド洋進出に成功し、1493年にはポルトガルからエチオピアに使者が派遣された。その後、1526年にアダルの弱冠19歳の軍人アーマッド・グラン(Ahmad Gran=左利きのアーマッド;フル・ネームはAhmad ibn Ibrahim al Ghazi)が大多数の支持を集めてエチオピア帝国に対し聖戦(ジハッド)を布告し、オスマン・トルコから武器と兵の援助を得て、一時はエチオピア帝国の4分の3を支配した。これに困ったガローデオス(Galawdewos;在位1540-1559)帝は、先帝からの要請に基づきポルトガルが派遣したクリストフォロ・ダ・ガマ(/Christopher da Gama;バスコ・ダ・ガマの甥)と400人による援軍を受け、ポルトガルと協力して1543年にタナ湖の付近でアダル・トルコ混成軍を打ち破った。

同じ時期、帝国の南縁に住むオロモ(Oromo;アムハラ語ではGalla)人[1]が移動し始め、社会の不安定化の要因の一つとなった。

対アーマッド・グラン戦勝の後、ポルトガルはエチオピアへの影響力を強めようとカトリック伝道団を派遣し、エティオピア国民をローマ・カトリックに改宗させようと試みた。王族を始め改宗者を得たが、その結果宗派対立による内戦が勃発した。1596年には、先帝の死後彼の子と甥2人との間で三つ巴の後継者争いが始まり、そこに先帝の皇后や王族、貴族も争いに加わった。先帝の甥でカトリック教徒のスセニョス(Susenyosu;在位1607-32)が帝位に就いたが、宗教戦争はかえって激しさを増した。結果、スセニョス帝は国内でのこれ以上の流血を避け、混乱に終止符を打つために退位した。

ゴンダール(Gonder)時代

スセニョス退位後、その子ファシラダス(Fasiladas在位1632-1667)[2]が帝位を継いだ。彼自身は熱心なエチオピア正教徒で、カトリック教団を追放し、内戦を終結した。またイスラム教国とも和平を行い、社会を安定化させて繁栄に導いた。彼はゴンダ―ルに遷都し、ここに宮殿や教会を建設し文化を花開かせた。以後の約100年をゴンダール時代と言う。

彼とその子ヨハニス(Yohannis;在位1667-82)、孫のイヤス1世(Iyasu/Eyasu I;在位1682-1706)の時代は、対オロモ、対イスラムに対する軍事作戦も行われたが、同時に和平にも積極的だった。彼らの時代は行政制度が整備され、税が公平に徴収され、外交面ではフランスと大使が交換されるなど、一時安定と繁栄の時代が続いた。

イヤス1世の死後、彼の息子が跡を継いだが、僅か数年で貴族の1人に暗殺された。その後10数年間、王族、貴族、軍が入り乱れた権力闘争が続き、ベカファ(Bekafa;在位1712-30)の治世に貴族たちが皇帝軍に制圧されていったん国は安定したが、彼の死後幼い息子が帝位に就いて再び国が乱れ、ラス(Ras;諸公候)達が覇権を争うようになった。特にベカファの孫のヨアス(Iyoas/Joas;在位1755-1769)の時代は、ティグレのラス、ミカエル・セフル(Mikael/Michael Sehul)が王の背後で権威を振るった。

ラス達の時代

1769年にミカエル・セフルがヨアス帝と、続いてその後継者ヨハニス2世(Yohannis II)を殺害し、ヨハニスの子を帝位に就けて自分は影の実力者として君臨した。この事件からテオドロス2世の出現まではラス達の時代(ゼメネ・メサフィント;Zemene Masafent)と呼ばれ、ゴンダールの皇帝は名目のみの存在となって、各地のラスたちが群雄割拠して覇を競い合った。

再統一・近代化の時代

テオドロス2世(Tewodros II;在位1855-1868)は下級貴族の出身で、一時は没落して山賊を働いていたが、軍事的才能を身に付けて頭角を現し、ゴンダールを支配していたラス・アリ(Ras Ali)等を屈服せしめて、1855年に帝位に就いた。彼はエジプトの軍事的脅威に対抗するため、国家再統一と中央集権制の確立に取り組んだ。そのためヨーロッパの知識と近代技術を導入するのに熱心で、ヨーロッパ諸国との外交関係樹立に熱心であった。しかしあまりにも性急であったため、イギリスと衝突し、イギリスからの攻撃を受けて敗北し、自害した。テオドロスの死後、帝位は4年弱の間空席であったが、有力者3名の内、ティグレ出身のヨハニス4世(Yohannis IV;在位1872-1889)が帝位に就いた。彼の時代にエジプトからの攻撃が4回にわたってあり、エチオピア軍はエジプト軍を破って1884年に協定が結ばれ、エジプト軍は去った。イタリア軍の侵攻も始まったが、マフディが率いるマフディヤも北から侵攻した。ヨハニスはマフディヤ軍との戦争の最中に戦死した。

 

②     メネリク2世(在位1889~1913)

ヨハニスの死後、帝位についたのがメネリク2世である。彼は第一次エチオピア戦争においてイタリア王国を破り、列強にエチオピアの独立を承認させた。これは、当時のアフリカ大陸の諸王国の中で唯一独立を保つことが出来た事例として有名となった。

メネリク2世は、ベルギーフランスロシアなど複数の列強国家による資本を導入することによって特定の国家に従属することを避けながら西洋国家をモデルとした新しいを国づくりを始めた。教育の近代化、電話の普及、鉄道、道路の敷設、アビシニア銀行の設立、郵便、貨幣制度、病院など一連のインフラの整備、政治面では内閣制度の導入などの近代化改革などである。こうして、エチオピアはアフリカ諸国の中でも最も進んだ国となった。しかし1906年脳出血を起こし、以降、皇后のタイトゥが実権を握ることとなった。1887年皇后のために作られたエチオピア高原の避暑地を首都と定め、アジスアベバ(新しい花)と名付けた。

今にも見るメネリク2世の偉業。

・アディスアベバ中央駅…1880年に建設されたフランス様式の駅。

・メネリク2世通り…この通りの坂を登っていくと、突き当りに現在は首相官邸として使われているメネリク2世の宮殿がある。

・メネリク・セカンダリー・スクール…1905年にメネリク2世によって創設されたエチオピアで最も古い学校。生徒数はおよそ7000人<![endif]>

[1] オロモ人は好戦的な遊牧民で、キリスト教徒、イスラム教徒両者に対し攻撃していたが、民族として統一行動を取ることはなく、互い同士でも侵略し合ったりして、脅威としての度合いは大きくはなかった。中にはアムハラ人地域に混住・混血し、クリスチャンに改宗するものもいて、民族としてのアイデンティティを保ちつつ帝国の統治機構に編入されていくものもおり、皇室にも彼らの血が流入した。

[2] ゴンダールに都を築き、世界遺産にもなっている「不思議の城」を建設。


アフリカの年                  06ks1248 宮原幸加

第二次世界大戦前のアフリカを見ると、独立国はエチオピア、リベリアの2国と、白人支配の南アフリカだけだった。

 

しかし、第二次世界大戦により植民地体制は大きく揺らいだ。

1940年代には、日本が占領していた国々、イギリスの植民地だった国々のほとんどが独立した。

 

こうした動きは、西欧諸国を中心とする19世紀の国際秩序を崩壊させる出来事だった。

アジア諸国は、人類史を動かす大きな勢力となった。

 

1955年、インドネシアのバントンでアジア諸国と若干のアフリカ諸国が参加して「アジアアフリカ会議」が開催された。会議では、基本的人権の尊重 国連憲章の尊重 内政不干渉 反植民地主義 非同盟 などを内容とする「バンドン10原則」が採択された。

 

 

1957年にガーナがイギリスから独立して以来、サハラ砂漠以南のアフリカにも、民族独立の波が広がって、アフリカの植民地体制も1960年~70年代にかけて崩壊した。

 

1960年代には、ナイジェリア、カメルーンなどの黒アフリカで、17国が一気に独立を達成し「アフリカの年」といわれた。




帝政崩壊から現代にかけて


報告者:山崎美幸

高まる不満 (1960年代後半~70年代初期) 皇帝の失政と運動の高まり

1.1962年のエリトリア併合が原因で1970~80年代、エリトリア地方で分離独立闘争が起こる。エリトリア解放戦線(ELF)がゲリラ闘争を指揮、武装闘争を呼びかける。

2.1970年代初め 干ばつによる飢餓(特にエチオピア北部・東部:農村部の住民)

皇帝の対応 ≪飢餓災害における失政≫

①     海外での名声に傷がつくことを恐れ、このことを国際委員会に報告しなかった 

②     1973年11月まで 国連などの国際機関が緊急救援活動に取り組むことを許可しなかった

  3.オイルショックによる物価高騰(都市の住民)

  4.1973年、東部のオガデン地域のソマリ人の反政府闘争

 

1974年2月25日 「アスマラ反乱」陸軍の一部が待遇改善を求めて起こした反乱

1.        学生・農民たちも立ち上がり、皇帝を糾弾し始めた為エチオピア改革のスタートと言われる

2.        新内閣が組織され、憲法改定や土地制度の改革に取り組むが、失敗に終わる。また、浄化運動が開始され、旧内閣や皇帝の身辺が調査される一方、徐々に軍部が実権を掌握するようになる。

 

1974年9月 前兆  1.皇帝非難のポスターが堂々と貼られるようになる

2.皇帝、金銭問題で民衆の不満を煽る

9月12日 革命 そして帝政の廃止(1975年) ハイレ・セラシエ1世:軍部によって逮捕・廃位

《意義》1.約2000年(伝説上では3000年)にも渡って継続した帝政支配の歴史が幕を閉じた

2.1978年の新憲法によって、表面上は共和体制が施行された

3.米軍基地が撤去された

 

1975年9月

軍部による臨時軍事行政評議会(Provisional Military Administration Council: PMAC)の設置

12月:社会主義国家建設を宣言、臨時軍事政府を打ち立てる。

   議長:アマン・アンドム将軍   副議長:メンギスツ・ハイレ・マリアム

しかし、PMACの実権は青年将校を中心とする軍部権力の中枢部DERGにあったため、議長はすぐに解任され、副議長を中心に革命政府は運営された。1977年、メンギスツは議長に就任。

・エチオピア人民民主共和国大統領として君臨(1987.9~1991.5)

・強い社会主義信奉者で、ソ連やキューバなど社会主義国との同盟を求めた

・着実に独裁主義へと政権を進めた

1987年 国民投票でPMAC廃止(軍事政権→国民議会が最高機関に)    メンギスツ:大統領に就任

エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁体制を敷く

 

1991年5月   メンギスツ:反政府勢力(EPLF)との戦闘の結果ジンバブエへ亡命

7月:エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に

(EPRDFの指導者は、他の部族の独立を認め、それぞれの地域での自治権も認めた《民族融和》)

1993年春 エリトリア独立 (メンギスツの失脚で独立運動に拍車がかかった) (政府運営=EPLF)

 

1995年5~6月:第1回国政選挙(連邦下院選挙及び地方議会選挙)実施

8月:新憲法制定 国名をエチオピア連邦民主共和国と改称

ネガソ・ギダダ情報相:正式大統領  メレス:事実上の最高指導者である首相に就任

1998年   5月:エチオピア・エリトリア国境紛争勃発

2000年   5月:エリトリア軍、撤退を表明   /  第2回国政選挙、総選挙で与党EPRDFが圧勝

6月:メレス首相、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を承諾

7月:国連の安保理はPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定

12月:エリトリアとの包括的和平合意成立 / (10月:メレス首相再選)

2001年   2月:エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意

10月:ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルデギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に

2002年   4月:国境委員会によりエリトリアとの(地図上の)国境線確定

2005年   5月:第3回国政選挙

 政体:連邦共和制
 元首:ギルマ・ウォルデギオルギス
 首相:メレス・ゼナウィ
 外相:セイヨム・メスフィン
 内閣の閣僚:首相が選任し、下院が承認
 
 議会:2院政

1.人民代表議会[下院]議員

小選挙区制選挙で選出

2.連邦議会[上院]議員

各州によって選出

 ・連邦与党

 オロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線、ティグレ人民解放戦線(TPLF)の4党でエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成する

 ・その他主要政党

 エチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党・メディン党、虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合(UDF)など

 ・反政府勢力

 統一オロモ解放戦線(UOLF、オロモ解放戦線(OLF)など4組織で構成)オガデン民族解放戦線(ONLF)がある。かつての支配政党エチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅

1990年の終わりまでに、エチオピアは長期にわたった内戦と飢餓から立ち直り始めた

 1990現在では成長率約 8%(2001年)を記録するなど好転(しかし依然として世界最貧国の一つ)

経済:諸外国からのエチオピア事業への投資により立ち直り始めている

 政治:この何年間で、初めて、様々な政党が政治に参加することが許された。しかし、EPRDFのグループが評議会で圧倒的多数を占めているので、実際には一党独裁の状況。さらに、中央政府は反政府政党を押さえつけているので、エチオピアの政治状況は緊張を深めている

農業:主要産業だが、機械化が進まず生産性が低い。

その他:エリトリア独立に伴い内陸国となったため、港および鉄道を有料で利用している



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